一切の消極的なものを否定せよ

    一瞬一秒といえども、消極的な悲観的な想念を心に持ってはならないのである。それは実在(実相)とは調和しない想念であって、実在の完全な相(すがた)を、たとえば、皎々と輝く円満な満月の姿を、暗雲をつくってそれを覆い隠してしまうのと同じ結果となるのである。神の創造りたもうた此の世界には、眞に悲観すべき何事も存在しないのである。これが真理である。真理を憶(おも)い起こすがよい。真理はあなたを一切の暗黒な束縛から解放するのである。悲観的な何事かが起こってきたならば、「こんなものは神の想像の世界には眞に存在しないのである。迷いよ去れ、しかして”本来の無”に還れ!」と念じて、それらの暗いものが存在するという念を一蹴し去るがよい。”悪”も”不幸”も”病気”も”不景気”もそれは本来の相(すがた)ではなく、唯、それは”迷い”の念が仮につくった妄想に過ぎないのであるから、断断乎として否定し去れば消えてしまうのである。

すべての人と和解すること

    人が自分を、自分の運動を悪評したからとて、腹を立ててそれを罵り返してはならない。イエスは「彼らは為すことを知らざるなり。彼等を赦したまえ」と神に祈っているのである。ある時には、他からの悪評は、自分の気が付かない欠陥を注意させてくれるための観音菩薩からの慈導であるとこともある。常に心を静かにして、自己の行為や言葉遣いを反省してみるがよい。天地一切のものに和解するとは、苦く辛い人々の態度の奥にも、神仏の導きの智慧があり、観音菩薩が三十三身に身を変じて人々を救済なさるその変化身であることを知り、その慈悲の実相を拝んで行くことである。若し、自分に最も辛い敵だと思われていた者も、その実相が観世音菩薩の慈導であるとして、自分の方から拝むことができるならば、却って彼をして自分の最大の味方とならしめることが出来るのである。最も拝みにくい者をも、努力して拝むことが、その人の魂を向上させる道となるのである。

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